昭和五十六年十二月十七日 朝の御理解
御理解第四十三節
「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ」
昨日はあのように報徳祭を奉仕さして頂きましたが、えー昨日の報徳祭は私はそれこそ今日の御理解じゃないけれども、死に際にもお願いをせよと仰せられる、ね。死んだからと言うて神のお世話にならんわけにはいくまいがと仰せられるように、例えばどこにお粗末があり御無礼があっておかげを落したと致しましても、そのおかげを落したその中にも神様のおかげを受けなければ出来ないので御座いますから、もうどこどこまでもやはり願わずにはおられんのであります。
皆さんももうあの前夜祭におかげを頂かれた方は御承知だったでしょうけれども、私はもう昨日の報徳祭は前夜祭からずっーとそうでした。もうそれこそ死に際にもお願いをするような気持ちでおかげを頂きましたんですけど、今日の御理解はこう言う御理解だから死に際っていう言葉を使っていますけれども、いわば段々聞いていって下さるうちに分かると思いますけれども、お祭りが始まったら千鳥に今村先生が出てるんですよね。私も、それこそドキッとしましたけれどももう私全然知らなかったもんですから、それで済んでからどうして今村先生を、したら明日も今村先生ですとこう言うわけです。
そりゃあ竹内先生でしたから竹内先生に、そりゃいかんばいち、ついあんた本当いくら何というてもふんなら合楽で人間が人間らしゅうとか、それこそ生きても死んでもといったようなその信心を頂いておるに致しましても、ほんな今々親を亡くしていうならば悲しみ済んだばっかりの先生が、しかもお祭りに出るとか出ますとか言うてよかろうはずがないばいて、はいそれはみんな例えば、合楽的に問えば例えばそれこそ生きても死んでもおかげを頂かなきゃならんのだから、けれどもそこに生身をもっとる人間なんだからね。
これは皆さんも御承知かも知れませんけれども、私はそういう風に人に説きながらもですよ、なら清き所も汚き所も同じという風に説きながらもです、私は外出したら必ずもう絶対手を洗って口をゆすがなきゃお広前に出てこんです。ほんなら、清き所も汚き所も同じという観念がすきっとでけとんならそんなこつする必要ないでしょうが。私はもうどこへ参りましてもちょっとそこま出かけましても御広前に入ってくる時には、必ず手を洗い口をすすいでからしか入ってきません。
その位にほな、いうならば私は神様を大切にしとるつもりなんです。それにまあ勿論うかつだったという事もありましょうけれども、まあ報徳祭をすましてもう前夜祭は報徳祭の始まりと言われるのですから始まりから、普通の言葉で言うと、ケチがついたというかね、勿論昨日は千鳥を変えておかげを頂きましたけれども、そういういやあ今の私はそんなことは問題じゃないといったものの心のどこかにずっーと引っ掛かってるんですよね。何か昨日はお祭りが本当にそんな感じでしたですよ終わるまで。けれども、今日の御理解がけれどもやっぱ願はずにはおれないとね、だからしめくくってみたらおかげであったなあという事をまあこれもおかげでという事がわかるんですけれども。
昨日私、夜の御祈念前にちょっとここへ出てまいりましたら、あのー上野先生が今日は色々とお届けをあった中に、三瀦から参って来る熱心に一通りは参ってくる熱心に一通りは参ってくるという働きをし、お家が出来るというので地鎮祭をさして頂いたほどしのお家なんです。そこがその四件こう固まってあるそうですが、そこに薮がありましてね、薮にどうした事か火が入ってそんどんどん燃えだした。誰もいないのに。ここにお参りしてきておる其の人が気付いてそのそれこそ言われたんだそうですが、火の中に飛び込んで消しましたと言われる。勿論髪でんなんでんこうちぢれとるけどもおかげ、もうそれこそ金光様金光様でもう私は忍術使いじゃ自分でじゃないじゃろうかと思うようにもう一人で、まあ消し止めされて消し止めた所へその家の方達が帰ってみえたんだそうですが、もうありゃー私がちょっと遅かったら四件の家が一緒に全焼しとったでしょうとおかげ頂いてまあ、頭の髪がちっと縮れるくらいに焼けたくらいで着物にも火がつかずに火傷もせずにもうこげな広大なおかげは御座いませんでしたというて昨日御礼参拝があったそうです。
そしたそそのすぐあとに高松和子先生が、今日は又、善導寺の久保山の子供純坊がお友達でこうやって道を自転車で歩きよった。してちょっと遅れたと思ったら大きな音がしたから…と思ったら、ダンプカーに巻き込まれてもう本当に即死のような事故だったそうです。もう私はそれを聞かせて頂いてですね、もう本当にまあどちらもそれこそ大変な事になろうとする寸前でしたけれどもさあその方は大変な気の毒なけれどもその純坊の事ですたいね。それこそ紙一重で四件が焼け出されてしまえせんじゃろうかという所でおかげを頂いたと、ならこの純坊も一緒に並んで行きよったっぢゃろがの、それちょっとおくれたとたんに大きな音がしたと思うたら、そん連れがそのお友達はそういうようなまあ無惨な死に方をされたというお届けがこうあった時にね、あーおかげ頂いたなあとこう自分の心の時には思う時もありますね。
けども、今も申しますように私の心がもう前夜祭から何か引っ掛かっとらんといいながらでも引っ掛かっておるような、それこそ死に際んでもお願いせんならんといったような心の状態がずーっと昨日続いとる時でしたから、それこそ私自身がひやーっとしました。あーおかげ頂いたのだけじゃすまされない。何かそういう災難が合楽の上にもう接近しておるような思いがいたしました。ね、紙一重。間違っておったらならこりゃ自分、合楽の信者だから信者じゃないからというわけでじゃないですよ。けれどもなら合楽の、反対に純坊がそうだったという事だったならどうだっただろう。
本当にその方が言われるように、私がもし一人居なかったら皆が留守しとったから、本当に四件が全焼しとったでしょうというような事であったかも知れなかったものを、それこそ紙一重におかげを頂いただけでは昨日は済まされない気がいたしました。それこそ何かひしひしとです、もう紙一重そこにほんならば合楽の上に神様は何かお気付下さっておるなあというふうにしかこれはそう思いましたがね。
そん時に思いました。あの和すれば乱れる事ないって言うような御理解を最近頂いとりますけれども、これはね、自分の心が本当に和しておる時に、はあーおかげ頂いたですむんです。ところが今のように死に際にもお願いせよといったような時ですから、自分の心のコントロールが出けてないんです。ですからはっ!!とするんです、ね。そこが生身をもっとる人間ですけれどもね。はっ!!とするけれどもね、そこからの信心確かに教祖様が仰るように、いうならば死に際ふな例えば火事になったなる、又事故におうたというてもその中にとても神様のおかげを頂かなければできんのだという事が分かったら願わずにはおれない、という紙一重そこまで合楽の上に何かが起ころうとしておるというそういうお気付として頂いたといたしましてもね、もう本当に願わずにはおられないという気が致しますですね。
昨日もここへ又下がって御祈念させて頂いておりましたら、色々と神様からその前夜からなら報徳祭の事からまあ御礼を申し上げる事ばっかりじゃなくて、お詫びする事ばっかりで御座いましたけれども、勧進帳という歌舞伎十八番のお芝居がありますが、あれは安宅関でいわば山吹に化けた義経主従が通れん所を通してもらうという芝居なんですね、それを何というですかね。富樫がそれこそ推量して弁慶の忠義の心に免じて、いうなら勧進帳も空読みである事も知っておるも、そこにちゃんと身を隠しておる事も知っておるのだけれどもなら義経として疑ごうたばっかりに皆に難儀をかけたというてかえってお詫びをするようにして通すというような場面がありますが、それにあの義経が深く笠をかぶっとらんなんとに笠を取って、こう大威張りで通ろうとする所を頂いたんです。
そんならいかに富樫が人情が熱い侍でありましても、目の前にこうやって俺は義経ぞと言わんばっかりにして、ほんなら通ろうとするならそれでは通すわけにはいかないでしょう。いかに人間が人間らしゅうというような生き方であってもです、なら私が申します心に引っ掛かっておるならば引っ掛かっておる慎みをもってね、やはりあのお詫びにお詫びをする。あのこの辺の所が合楽で時々皆が間違える所があるんですよね。人間らしゅう、まあ親先生はこげなこつに引っ掛かりなさらん、成程引っ掛からんけれども、ようにあるけれども、私は事神様に向けての神経というものはもう本当に皆がびっくりする位に神経を使うわけです、ね。
それはなら、今も申しますようにどこにちょっと外出してもですよ、別に汚れた事したわけでもないのにだけれども、必ず手を洗い口をゆすぐといっておるでしょう、ね。それふんなら私が平気になったら、それは通れない所でも通して下さってあるのが今日の合楽、信心も出けんのに出来たかのようにしておかげ下さってあるのが合楽、それになら出けたかのようにしてね、その大威張りのようにしてふならが、こうやって大手を振って通ろうとするならばいかにとてもとがめんわけにはいけないのです。通すわけにはいけんのです、ね。こういう所を合楽の人達はいよいよ分からせてもらわなきゃならん。じゃどういう中にあっても教祖の御理解じゃないですけれどもね、自分の心の中にいうならいつも本当に和の心でおれば、それにどういう事にでも溶け込んでいけれるわけですけれどもね、そんな時ではばっかりというわけにはまいりません。いうならば心のいうならコントロールが出来おうてない時もあります、ね。その心のコントロールが出けていない時などはもうそれこそそういう心のコントロールが出けてないような状態の中にあっても、神様のおかげを頂かなければ出来ないという事をわからしてもろうて詫びる所を詫びる、願う所を願うという生き方を身に付けてまいりませんと、只こういう所が合楽理念は素晴らしいね、もうそれこそ大威張りで通れるといったようなものではない事をね、私共はもう一つ深くその辺の所を分からして頂かなきゃならないように思いました。 報徳祭、前夜祭はその幕開け始まりと言われる。それにまあ普通の言葉で言うとケチがついた。あーそんな事はとこう頭を打ち振っただけでふれる場合もあるね。払われる場合もある。けれども、払うたかにみえてもやはり心に明日の大事な大祭の事に引っ掛かりに引っ掛かるもんですから、やはりどこかに掛かっておるですから、結局まあ言うならば、死に際にもお願いせよと、私が知っておったらそんな事はさせないはずでしたけれども、昨日先生がその遅かったり見えなかったりしたんですよね。そいでわざわざ電話かけとるごたるふうです。そしてまあ見えない方もありましたですまあ、ああいう事も今までかってない事でしたからもうあの、例えば典礼でも桜井先生がして頂こうかというておる所に見えるという事でしたから待ってちょっと遅れましたけれどもさして頂いたんですけど、そういうそのスムーズさを一人一人といったような中にあってもやはりおかげを頂かなければ出けんのですから、今日の御理解で申しますとです、どんな中にあってもこれは私共の心がいつも和の心でコントロールが出けておればそれはおかげとして頂けるのですけれども、コントロールが出けてないと出けたかのようであってもどこにか言うなら引っ掛かっておる。まあ、ああ親先生だからこうとこういうのではなくて、私はどこ行っても今言うように必ず手を洗う口をゆすいでしかお広前には出てこない。神様に対しては、そういう細かい神経を使っておるという事です。
そこからいうなら、皆さんね、死に際にもやはりお願いせよ。どういう中にあっても、どういう状態の中にあってもやはりそこにお願いをするまあ心がね、謙虚な信心という事につながってくるのじゃないでしょうか。合楽の人達は、それこそ当然通れんとこでも通らしてもらう、それをなら弁慶があれだけ一生懸命やっておるのに義経がこうやって笠もかぶらずにこうやって大手を振って通ろうとするならば、そりゃいかに通してやりたいの思いはあってもそれを通してやるわけにはならんという事になるのじゃないでしょうか。そういう事でおかげを受けられないという事になったらつまらん。どういう中にあってもおかげ頂かなきゃならん。
昨日聞きました、その火事の事又は交通事故の事のを聞かせて頂いて、これが本当に私の心の中に有難いというて有難いだけでの心の状態の時であったならばね、もうおかげだけで済まされたかも知れませんけれども、昨日はそんなわけで御座いましたから私の心の中にそれこそ私自身がひゃっとするような昨日のしめくくりに本当にひゃっとするような思いで、もう本当に合楽教会の側までいうなら難がかかっておったのをもうまあ辛うじておかげを下さったんだなあといったようなね、思いでおりましたら今日の御理解でした、ね。
ですから少し意味は違います。死に際にもという事は、どういうふんならば御粗末御無礼、おかげを落していっておるなあと感じておりましても、落しているそん中にでも神様の働きを受けなければならんという事で御座いますね。どうぞ。